046【憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず、一隅を挙ぐるに、三隅を以つて反せずんば、則ち復びせざるなり】(いきどおらずんばけいせず、ひせずんばはっせず、いちぐうをあぐるに、さんぐうをもってかえらずんば、すなわちふたたびせざるなり)

こんにちは!
今回は「本当の学びとは何か?」を鋭く教えてくれる、孔子の教育観を表す一節をご紹介します。

「なかなか教えてくれない先生」「質問してもヒントしかくれない先生」、そんな経験はありませんか?
実はそれ、孔子流の“本気の教育”だったのかもしれません。


◆ 今回の言葉

「憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず、一隅を挙ぐるに、三隅を以つて反せずんば、則ち復びせざるなり」
(いきどおらずんばけいせず、ひせずんばはっせず、いちぐうをあぐるに、さんぐうをもってかえらずんば、すなわちふたたびせざるなり)

意味は次のようになります。

  • 自分で悩んで悔しがるほど努力しない者には、教えを与えない。

  • 言いたいのに言葉にならず苦しむ者でなければ、導こうとはしない。

  • 一つの角を示して三つの角を自分で推し量れない者には、それ以上は教えない。

要するに──
**「本気で学びたいと思う人にしか、教えない」**という、孔子の教育ポリシーなのです。


◆ たとえ話でイメージしてみよう

■ ヒントしかくれない先生

ある日、優秀な塾の先生のもとに、生徒Aがやってきました。
「先生、この問題の解き方がわかりません!」

先生は答えを教える代わりに、似た問題を出し、「ここまでは自分で考えてごらん」とだけ言いました。

Aくんは「えー、教えてくれないの?」と最初は不満。でも何時間も考え抜き、ようやく自分で答えにたどり着いたとき、大きな達成感を得ました。

その経験の後、彼の学力は飛躍的にアップ。
“自分の頭で考える力”が養われたからです。

これはまさに、孔子が理想とした学びの姿です。


◆ 出典と背景

この言葉は『論語』の「述而(じゅつじ)篇」に登場します。
孔子が“どんな弟子にどう教えるか”という、自身の教育方針を語った場面です。

「憤」や「悱(ひ)」という漢字はやや難しいですが、それぞれ──

  • 憤(いきどおる):答えが出ずに悔しがるほど真剣に考えること

  • 悱(ひ):言いたいのに言葉にならない、もどかしい状態

それだけ「学ぶ側の熱意・努力」を重視した教育だったのです。


◆ 現代にどう活かせる?

この考え方は、今の時代にもぴったりフィットします。

  • “答えをすぐに求めない”癖をつける

  • 自分で考え、調べる姿勢を持つ

  • 学ぶ側が「受け身」ではなく「主体的」であることが大切

学校でも職場でも、今や“受動的な学び”から“能動的な学び”への移行が求められています。
自分で考えてこそ、本当の知識として身につくというのは、昔も今も変わらないんですね。


◆ おわりに 〜本気の学びは、自分で掴む〜

孔子は、「学び」とは“先生が教えるもの”ではなく、“自分で掴みにいくもの”だと考えていました。
そして、本気で学ぶ者には、教師はヒントを与え、背中を押す存在であるべきと。

本気の学びには、「悔しさ」や「もどかしさ」が伴う。
でも、それを超えたとき、本当の成長がある。

そんな力強いメッセージが、この論語の一節には込められています。


次回も、論語の中から、人生や学びに効く深い言葉をご紹介していきます!