
戦国時代、関東と東北の境界にどっしり構えていたのが、常陸(現在の茨城県)の佐竹氏。
その中心にいたのが、今回の主役、佐竹義重です。
「義に厚い」「豪胆無比」「交渉も得意」――
どこを切り取っても“頼れるリーダー像”の代表みたいな人物。
それでいて、ちょっと豪快で人情味もある男なんです。
さぁ、“東北の鬼”とも呼ばれた義重の物語へ、いざ出陣!
豪族から大名へ!関東の猛者、あらわる
義重が生まれたのは1547年。
名門・佐竹氏の嫡男として育ちました。
佐竹家は、もともと関東の名門ですが、戦国の混乱期に他の勢力に押されがち。
そんな家の未来を託された義重は、若いころから戦で頭角を現していきます。
まず手を付けたのが、家中の統制と周辺国の攻略。
常陸をまとめ上げ、さらに南の小田氏、北の伊達氏、西の宇都宮氏などとバチバチやり合います。
この頃の義重、かなりの“やり手&ガチ勢”です!
伊達政宗も一目置いた?タフネゴシエーター
戦上手なだけでなく、交渉・政治も得意だったのが義重のすごいところ。
中でも有名なのが、伊達政宗との駆け引き。
若き政宗が台頭してきた時期、佐竹家と伊達家は東北でしのぎを削る関係。
しかし義重は無理に戦わず、政宗の勢いを見極めながら巧みに和睦を選びます。
「戦だけじゃなく、国を守るのが大名の役目だ」
そんな信念が感じられる、大人の判断をしていたんですね。
息子・義宣にバトンを渡し、静かなる引退
やがて義重は、息子の佐竹義宣に家督を譲ります。
義宣は豊臣政権下でさらに躍進。
義重はというと、引退しても軍事・外交の影のサポート役として活躍し続けました。
息子に全面的に任せるのではなく、しっかり“後見人”として支える姿に、「理想の親父像」がにじみ出ていてなんとも頼もしい!
義重の死後、佐竹家は関ヶ原の影響で秋田へ移されますが、その後も“秋田佐竹氏”として明治まで生き残ります。
これも、義重の時代にしっかり基盤を築いたおかげなんです。
おわりに
佐竹義重は、戦国武将の中でも「地味だけど超有能」タイプの代表格。
- 戦も強い
- 人望もある
- 政治もできる
- 家族に慕われる
こういう人がいるから、戦国の世がまわってたんだな〜と感じさせてくれます。
表に出てくる派手さはないけれど、まるで“縁の下の大黒柱”のような安定感が光る、まさに“関東戦国の屋台骨”のような存在でした。