018【福島正則】豪快一直線!秀吉子飼いの猛将、友情と運命のはざまで

戦国時代の武将の中には、まるでマンガのように豪快で熱血なキャラクターもいました。

その代表格が――福島正則ふくしま まさのり

豊臣秀吉の親戚として名を上げ、数々の戦で豪勇を振るった「秀吉子飼い」のひとり。

友情に厚く、感情にまっすぐな男は、やがて時代の流れに翻弄されていきます。

今回は、そんな正則の激しくも人間味あふれる生涯を、ドラマチックにご紹介します!

平凡な出自、しかし運命は一変!

正則は、1561年、尾張国(現在の愛知県)に生まれました。

母は秀吉の母・大政所の妹という説があり、豊臣秀吉とは親戚関係にあたります。

元々は無名の若者でしたが、秀吉に仕えてからはその豪快な武勇と忠義心が評価され、頭角を現します。

秀吉の天下取りに付き従い、まさに「子飼こがいの猛将」としてその名をとどろかせるようになるのです。

武勇伝の数々と「七本槍」

福島正則ふくしままさのりの名を一躍高めたのは、やはり賤ヶ岳しずがたけの戦い(1583年)

ここで彼は、秀吉のために真っ先に敵陣へ斬り込み大暴れ!

この功績で「賤ヶ岳しずがたけの七本槍」と称えられることになります。

まさに「突撃隊長」のような存在で、戦ではとにかく前へ前へ!

豪放磊落ごうほうらいらくなその性格は、部下たちにも慕われました。

関ヶ原での決断と、その後

豊臣恩顧とよとみおんこ(豊臣秀吉から恩恵を受けていた人物や家臣)の武将でありながら、関ヶ原の戦いでは東軍(徳川家康側)に味方します。

このとき、親友・石田三成とは敵同士に。

「本当は豊臣のために戦いたかったんじゃ…?」とも言われる正則。

ですが、武将として生き抜くために家康との同盟を選びました。

戦後は広島藩50万石という大大名に出世!

ところが――ここから、彼の運命は急降下していきます。

武士の誇りと改易の悲劇

大名として統治を行うなかで、徳川幕府に対する態度が「やや強硬すぎる」と見なされます。

そして江戸時代に入ってから、城の修理を無断で行ったことがとがめられ、ついにお家は取り潰し(改易)となってしまうのです…。

「無念だっただろうな…」と誰もが思うほどの出来事。

しかし、最後まで正則は自らの武士道を貫きました。

彼の人生は、まさに忠義と誇りのぶつかり合いの連続でした。

おわりに

福島正則は、時代に翻弄ほんろうされながらも、友情・忠義・武勇を貫いた「人間味あふれる武将」でした。

戦場では恐れ知らず、家臣には情け深く、主君への思いには真っ直ぐ。

そんな姿勢は、今でも多くの歴史ファンに愛されています。

「豪快だけど繊細」「強いけど優しい」――

そんな正則の生きざまに、ちょっと胸が熱くなりませんか?