
戦国時代の名将たちの中でも、若くしてスターのように輝き、家康の信頼を一身に集めた人物がいました。
その名は――井伊直政!
「赤備え」で名を馳せたイケメン武将であり、徳川四天王のひとりにも数えられる、まさに家康軍団の若きエース!
今回は、そんな直政のドラマチックな生涯を、やわらかく楽しくご紹介します♪
井伊家再興と、徳川との出会い
井伊直政は**1561年、遠江国(現在の静岡県浜松市周辺)**に生まれます。
実は井伊家は、直政が生まれたころには一度断絶状態。父・井伊直親は謀反の疑いで殺され、母も出家、家臣たちも離散という、なかなかハードなスタートだったのです。
しかし直政は、そんな逆境を跳ね返して育ち、やがて徳川家康に見いだされて小姓として仕えることに。
その美男子っぷりと礼儀正しさ、さらに才能に満ちた姿に、家康はすぐさま目をかけました。
ここから、井伊家の復興と、若き日の出世街道がスタートします!
真紅の甲冑「赤備え」の伝説
井伊直政といえば、何といってもそのトレードマークが真っ赤な鎧=「赤備え」!
この赤備えは、もともとは武田軍最強と名高い山県昌景の部隊が使用していたもの。
その武田家が滅亡すると、家康はその装備や人材を直政に預け、「徳川の赤備え」として再生させたんです。
赤一色の軍勢はまさに戦場のアイドル!
敵にとっては恐怖の象徴であり、味方にとっては勇気の源。まさに目立って強い、戦国の花形でした。
若くして徳川四天王に
直政は20代から数々の戦に出陣し、関ヶ原の戦いでは徳川本陣の先鋒を任されるなど、大活躍!
あの「徳川四天王(本多忠勝、榊原康政、酒井忠次、井伊直政)」のひとりに数えられたのも納得の実力です。
関ヶ原では島津軍との激戦で重傷を負いながらも敵を退け、東軍勝利の立役者となりました。
しかしこの傷がもとで、わずか42歳という若さでこの世を去ってしまうのです…。
まさに、燃え尽きるように生きた、戦国時代の流れ星のような存在でした。
おわりに
井伊直政は、忠義を尽くし、武を極め、赤備えというシンボルで人々を魅了した美しき若武者でした。
彼の姿は、後の大名・彦根藩の礎となり、「井伊の赤鬼」の異名と共に、歴史に深く刻まれています。
その生涯は短くても、真っ直ぐで華やかで、戦国という舞台に最高の彩りを添えた存在でした。
今もなお、戦国ファンの間で熱く語られる井伊直政――
強さと美しさを兼ね備えた戦国のアイコンとして、ずっと輝き続けています。