
はじめに
戦国の荒波を駆け抜けた武将たちの中でも、「戦で一度も傷を負わなかった」という、まるで伝説のような人物がいました。
その名は――本多忠勝!
徳川家康を支え続けた忠臣でありながら、「ただ強い」では語れない、誠実さと気迫に満ちた魅力を持つ武人。
今回は、そんな忠勝の劇的な生涯を、ちょっぴりポップにご紹介します!
家康の幼なじみとしてスタート
本多忠勝は1548年、三河国(現在の愛知県)に生まれます。
幼名は「鍋之助」。
生まれた時から武士としての才能が光り、若いころから徳川家康のそばで戦に出ていたというから驚きです。
家康とはほぼ同年代で、まるで兄弟のような絆を育んでいきました。
その後の数々の戦いを共にしながら、忠勝は徐々に「徳川の槍」と呼ばれるほどの存在になっていきます。
敵も一目置く「戦国最強の槍使い」
忠勝が持っていた愛槍の名前は「蜻蛉切」。
あまりに鋭いため、飛んできた蜻蛉が真っ二つになったという逸話からこの名がついたと言われています。
彼の武勇はあまりにも凄まじく、あの織田信長が「家康にはもったいない男だ」と言ったとか。
また、敵である豊臣秀吉ですら、忠勝のことを「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と讃えたそうです。
中でも有名なのが、数々の合戦に出陣しながら一度も致命的な傷を負わなかったという記録。
戦国の荒波の中で“無敗”を貫いたその姿は、まさに生ける武神!
関ヶ原でも大活躍、そして家康の天下を見届ける
関ヶ原の戦いでは東軍として出陣し、最前線で敵と渡り合います。
味方を励まし、冷静に采配を振るいながら、まさに頼れる「不動の柱」だった忠勝。
戦後は功績を認められて、伊勢桑名藩10万石の大名に。
その後も家康の天下統一を見届けるまで、忠勝は常に徳川家のために働き続けました。
「武の人」だけではなく、「義の人」としても尊敬される理由がここにあります。
おわりに
本多忠勝は、戦においては無敵の強さを誇りながら、普段は寡黙で礼儀正しく、人情味のある男だったと言われています。
「強さ=怖さ」ではなく、「強さ=信頼」と感じさせてくれる、まさに理想の武将像。
彼のように「信じる相手のために、全力で戦い抜く」という生き方は、今を生きる私たちにも響くものがありますよね。
これぞ戦国の真の侍――本多忠勝、その名は永遠に語り継がれる英雄です。