011【柴田勝家】義に生き、戦に散った信長の重臣

はじめに

鬼柴田おにしばた」の異名を持つ戦国武将、柴田勝家しばた かついえ

その風貌ふうぼう猛々たけだけしく、その生き様はまっすぐ。

信長の片腕として数々の戦場を駆け抜けた彼ですが、最後は信長の死後、運命のうねりに飲まれていきます。

勇猛果敢ゆうもうかかんな武将というだけでなく、義理人情を大切にした男気の人

そんな柴田勝家の波乱に満ちた生涯を、ちょっとドラマチックにのぞいてみましょう。

尾張の風雲児、信長との出会い

柴田勝家しばた かついえは、**1522年ごろに尾張国おわりのくに(現在の愛知県)**で生まれました。

もともとは織田信長の父・信秀の代から仕えていた譜代ふだいの家臣。

信長がまだ若かりし頃から彼を支えていた、生粋きっすいの織田家ファンといってもいいでしょう。

初めは信長に反発し、一度は敵対する場面もありましたが、やがてそのカリスマに惚れ込み、信長の忠臣として生涯を捧げていくことになります

鬼柴田と呼ばれた理由

勝家が「鬼柴田おにしばた」と呼ばれたのは、ただ怖い顔をしていたからではありません。

戦場では鬼神きじんのごとく突進し、退しりぞくことを知らない豪傑ごうけつだったからです。

特に有名なのは、姉川あねがわの戦い長篠ながしのの戦いでの活躍。

信長の軍の中でも前線で戦い続け、武勇をもって天下布武てんかふぶを支えた存在でした。

とはいえ、ただの戦バカではなく、城の普請ふしん領国経営りょうこくけいえいにも力を注ぐなど、実務家としての一面もあったんですよ。

信長の死、そして運命の分かれ道

1582年、本能寺の変で信長が急死。

勝家にとってはまさに青天の霹靂でした。

織田家の跡継ぎをめぐって、天下が大きく揺れ動き始めます。

ここで登場するのが、後に天下を取るあの男、羽柴はしば(豊臣)秀吉

信長の死後、勝家と秀吉の間には対立の火種がくすぶり始めます。

勝家は織田家の嫡男・信孝のぶたかを支え、秀吉は三法師さんぼうし(信長の孫)をして対抗。

かつては同じ織田家のために戦った二人の武将が、ついにぶつかり合うときが来てしまったのです。

賤ヶ岳の戦い――最期の決断

1583年、ついに歴史が大きく動く――賤ヶ岳しずがたけの戦いです。

勝家は雪深い北陸から大軍を率いて上洛し、秀吉軍と正面衝突!

しかし、この戦いでは戦術の違いや味方の裏切りなどにより、徐々に劣勢に立たされます。

一時は勝利の兆しも見せたものの、最終的には敗走することとなりました。

そして、逃げ帰った勝家は、居城・北ノ庄城きたのしょうじょう(現在の福井県)で最期を迎えることになります

お市との愛と別れ

勝家といえば、もう一つ忘れてはいけないのが、織田信長の妹・お市の方との関係です。

お市は美しく気高い女性で、信長亡き後、勝家のもとに嫁ぎました。

しかし、賤ヶ岳の敗北によって二人は追い詰められ、勝家とお市は共に自害する道を選びました

この場面は数多くの物語やドラマで描かれ、悲劇のロミオとジュリエットのような恋として語られています。

勝家は、「家族を守る」「義を貫く」という覚悟のもと、その命を終えたのでした。

おわりに

柴田勝家は、武勇に優れた戦国武将として知られていますが、それ以上に彼の魅力は義理堅さと誠実さにありました。

信長に仕え、最後まで織田家のために戦い抜いたその姿は、時代を越えて多くの人に感動を与え続けています。

そして、お市の方との愛もまた、戦国の荒波に咲いたひとひらの華として語り継がれています。

敗れてもなお、信義しんぎに生きた男の姿

柴田勝家の生き様は、まさに戦国武士の理想像だったのかもしれません。