008【明智光秀】知略の武将、裏切り者か英雄か?運命に挑んだ戦国の知将

はじめに

「敵は本能寺にあり」――。

この言葉とともに、日本史最大級のドラマが始まりました。

その主役となったのが、明智光秀あけち みつひで

かつての主君・織田信長を討った男。

“裏切り者”のイメージがつきまといますが、実はとっても真面目で頭の良い人だったんです!

彼の人生は、まるで一編の悲劇的ヒーロー物語。

今回はその光と影を、ちょっぴり切なく、でも楽しくご紹介します!

幼少期と出自――実はよくわかっていない!?

光秀は1528年頃、美濃国みののくに(今の岐阜県)に生まれたとされます。

でも、実は彼の出自には謎が多く、どこの家柄かもハッキリしていません🤔

ただ、教養があり礼儀正しく、弓や剣だけでなく、和歌や茶の湯にも通じたいわば「文武両道」のインテリ武将✨

この時点で、すでにただ者じゃありません!

仕官と苦労――浪人時代からの大逆転!

光秀は若いころ、なかなか仕官先が見つからず、一時は浪人生活

でも、困っているときに助けてくれたのが――

細川藤孝ほそかわふじたかという名将。

その後、足利将軍家を経て、ついにあの織田信長に仕えることになります。

ここから光秀の人生は一気に動き出すのです。

名将としての手腕――頭脳で戦場を制す!

信長に仕えた光秀は、冷静で知略に優れた武将として大活躍。

特に有名なのが、1579年の丹波攻略

山間の難攻不落な土地を見事に平定!

信長からも「お主、なかなかやるな」と一目置かれる存在になります。

そして、丹波の国・福知山や亀山の支配を任され、大名としての地位も確立していきました。

主君・信長との関係――信頼と緊張のはざまで

光秀と信長は、初めは信頼関係で結ばれていました。

しかし、次第にその関係にはヒビが入り始めます…。

信長はカリスマでありながら、家臣に対してはとても厳しく、冷酷

光秀もたびたび叱責しっせきされたり、領地を没収されたりと屈辱的くつじょくてきな扱いを受けていました。

真面目で誠実な光秀にとって、信長のやり方は「もう限界…」だったのかもしれません。

そして――本能寺の変!

1582年6月、ついに運命の日が訪れます。

信長が少数の部下とともに本能寺に泊まっているという情報を得た光秀。

「今しかない」とばかりに、突如軍とつじょぐんを率いて本能寺を急襲きゅうしゅう――

「敵は本能寺にあり!」

日本史最大のクーデター、本能寺の変です。

信長は自害し、天下統一の夢はここで途絶えました。

その後の光秀――13日間の天下

信長を倒した光秀は、天下の主導権を握る――はずでした。

しかし、想定外の男が現れます。

それが、信長の家臣・羽柴(豊臣)秀吉

秀吉は驚異的なスピードで中国地方から戻り、山崎の戦いで光秀を討ち破ります。

光秀の天下は、たった13日間

その後、山中で落ち武者狩りに遭い、あっけなくこの世を去ります。

光秀の死後と再評価――実は名君だった?

光秀の死後、彼は“裏切り者”というイメージで語られることが多くなります。

でも、地元・丹波では善政ぜんせいを敷いた名君として今でも愛されています。

また、「なぜ本能寺の変を起こしたのか?」という謎には多くの説があり、現代でも研究が続けられているほど!

もしかすると、信長を倒したのは私利私欲ではなく、「民を守るため」「正義のため」だったのかもしれません。

おわりに:光秀は本当に“逆臣”だったのか?

明智光秀あけちみつひで――

彼の人生は、誤解されがちで、複雑で、どこか切ない。

でも、ただの裏切り者で終わらせるにはもったいないほど、その人柄や功績は深く、多面的です。

・頭が良く

・誠実で

・最後まで理想を貫こうとした武将

それが、明智光秀という男。

彼の行動は歴史を変え、そして今もなお、「正義とは何か?」を私たちに問いかけてくれるのです。