016【井伊直弼】桜田門外に散った、大老の覚悟

井伊直弼いい なおすけ

幕府の「最後の切り札」として、歴史の表舞台に登場した男。

ただの譜代大名ふだいだいみょうと思われた男が、突然「大老」に抜擢され、

わずか数年で幕府の未来を決める重大な選択をすることになる。

それは、誰かの希望を守るため。

そして、誰かの怒りを買うことになる決断だった。

十四男、城の隅で育った少年

1815年、彦根藩主・井伊家の十四男として生まれる。

十四男――つまり、家督を継ぐことなど、望まれない立場だった。

少年時代は、城のはしっこにある「埋木舎うもれぎのや」という屋敷で暮らす。

その屋敷の名前には、「世に出ることのない朽ち木くちき」の意味があった。

だが直弼なおすけは、学び、剣をとり、茶の道を極めた。

その静かな時間が、後に大きな決断を下す胆力を育てていく。

父の死と、急な家督相続

突然、家督を継ぐことになる。

兄たちが次々に亡くなり、気がつけば井伊家を背負うことに。

修業と自省の日々を送っていた直弼は、当主としての重責を負う。

時は幕末。

黒船が来航し、日本が大きく揺れていた。

そんな中、幕府から「大老になってほしい」と声がかかる。

本来は老中の上に立つ非常時の臨時職。

幕府がそれだけ追い詰められていた証だった。

日米修好通商条約――独断の決断

1858年、直弼はハリスとの間で「日米修好通商条約」を締結する。

しかし、これは将軍の正式な後継者問題が決まっていない中での独断だった。

朝廷の許可もなかった。

だから、多くの志士たちが激怒する。

攘夷じょうい外国排斥がいこくはいせき)」を唱える彼らにとって、井伊は裏切り者だった。

けれど井伊直弼いいなおすけは、外国と戦えば日本が滅びると知っていた。

だからこそ、誰よりも早く決断した。

安政の大獄――敵を増やした粛清

反対派の力を押さえるために始めたのが「安政の大獄あんせいのたいごく」。

多くの尊王攘夷そんのうじょうい派が捕らえられ、処罰された。

吉田松陰よしだしょういんも、その一人だった。

井伊は信念をもって行動した。

だがその強引さが、さらに敵を増やすことになる。

桜田門外の変――雪の朝に散る

1860年3月3日。

江戸城登城の途中、桜田門外さくらだもんがいで襲撃される。

犯人は、水戸藩と薩摩藩の浪士たち。

彼らにとって井伊は、すでに「討つべき悪」だった。

雪の降る寒い朝。

井伊直弼いいなおすけは、駕籠の中で命を落とした。

享年46。

まとめ

井伊直弼いいなおすけの行動は、今も賛否が分かれる。

だが一つだけ確かなことがある。

彼は逃げなかった。

大老という職に命を懸け、誰も決めようとしないことを、決めた。

その結果、多くを敵に回し、命を散らした。

でも、彼がいなければ、日本はもっと早く、外圧に飲み込まれていたかもしれない。

静かなる決意と、冷静な勇気。

井伊直弼は、責任を背負って生き、そして責任の中で死んだ男だった。