
戦国時代の九州といえば、「鬼島津」でおなじみの島津義弘や、名将・島津家久が思い浮かぶ人も多いかもしれません。
でも実は、その島津家の基礎をしっかり整えたキーパーソンがいたんです。
その名も――
島津貴久。
ちょっと地味? いえいえ!
彼の頑張りがなければ、あの最強兄弟の活躍もなかったかも…?
今日は、島津家復興の立役者・貴久の魅力をゆるっとご紹介します!
弱体化した島津家を継ぐ…苦難のスタート
貴久が生まれたのは1514年、薩摩国(現在の鹿児島県)。
名門・島津家の嫡男として育ちましたが、当時の島津家はかなり大変な状況。
家臣たちはバラバラ、親戚同士は対立、領地も不安定…。
いわば“お家騒動の真っただ中”だったんです。
そんな中、若き貴久は家を継ぎますが、いきなり問題だらけ!
でもここからが、貴久の真骨頂。
粘り強く、誠実に、人をまとめていく姿勢で、少しずつ島津家を再建していきます。
忍耐と知恵で、家を再生!
貴久が最初にしたのは、身内の和解と領内の安定化。
戦ってばかりの戦国の中で、「まずは内政から!」という視点がすごいところ。
そして彼は、息子たち――義久、義弘、歳久、家久――をしっかり育て上げます。
この4兄弟、のちに「島津四兄弟」として大活躍するのですが、それも貴久の教育あってこそ!
また、宗教や文化にも理解が深く、フランシスコ・ザビエルの布教を認めたのも貴久なんです。
このおかげで、のちの島津家は南蛮文化に開かれた先進的な家風を持つようになります。
戦場でも手腕を発揮!島津家の勢力拡大へ
もちろん、内政だけではありません!
戦国の世では戦も必要。
貴久は伊東氏や肝付氏など、周辺勢力との戦いを経て、薩摩・大隅を平定。
さらに日向への進出も進め、島津家の勢力はぐっと拡大していきました。
慎重で堅実。でも、ここぞという時には大胆。
そのバランスの良さが、貴久の真の強さです。
おわりに
島津貴久の人生は、まさに“礎を築く人”の鏡でした。
家を立て直し、家族をまとめ、名将たちを育て、戦にも勝つ。
そのすべてを地道にやり遂げたからこそ、あの島津の強さが生まれたのです。
「華やかさはないけれど、誰よりも大切な存在」
そんな“縁の下の力持ち”タイプの武将こそ、戦国の屋台骨を支えていたんですね。