
戦国武将といえば、本州の合戦が目立ちがちですが、実は九州にも、全国に名を轟かせた超実力派の武将がいたんです。
その名も――
島津義弘。
恐れられたあだ名は「鬼島津」!
どんなピンチにも負けず、何度でも立ち上がるその姿は、まさに不死鳥。
今回は、勇猛果敢で情にも厚い、義弘の熱き一生をドラマのようにご紹介します!
島津家の次男として誕生、だけど…
島津義弘は1535年、薩摩国(現在の鹿児島県)で島津家の次男として誕生。
普通なら家督は兄が継ぐもの。
義弘も家督を継いだわけではありませんが――
それでも彼は、兄・貴久や弟たちと力を合わせ、島津家を九州の一大勢力へと育てていく立役者となります。
実はこの兄弟、まるで戦隊ヒーローのような結束力!
義弘は中でも「突撃隊長」のような存在で、どんな戦でも先頭で駆け抜けていました。
戦の鬼と呼ばれた、数々の名勝負
義弘がその名を轟かせた戦といえば――耳川の戦い(1578年)!
この戦では、なんと大友宗麟の大軍を島津軍が撃破。
圧倒的な劣勢の中でも、義弘の戦術と気迫が光りました。
さらに有名なのが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)での活躍。
中でも「泗川の戦い」では、数千の兵で数万の明軍を打ち破るというとんでもない勝利を収め、“鬼島津”の名は朝鮮半島にまで響き渡ります。
この時、義弘はなんと60代!
まさに、年齢を超越した戦国界のレジェンドです。
関ヶ原でも魅せた!命をかけた「敵中突破」
義弘の生涯で最もドラマチックなのが――関ヶ原の戦い(1600年)!
西軍として参戦した義弘は、戦況の不利を悟ると、なんと敵陣のド真ん中を突っ切って脱出する「敵中突破」を決行!
普通なら討ち死に間違いなし…
でも義弘は、わずかな手勢と共にこれをやってのけたのです!
この命がけの突破劇は、まさに義弘の真骨頂。
敵将たちも「これぞ武士!」と感嘆したと伝わっています。
おわりに
島津義弘は、戦国時代でも屈指の実力を持つ武将でありながら、家族思いで、部下にも優しい人柄だったと言われています。
彼の戦い方は、ただ強いだけじゃない。
不利でもあきらめない、義を重んじる“魂の戦い”でした。
その生き様は、今でも多くの人に勇気を与えてくれます。
「戦国時代の本当の強さ」――
それを教えてくれる、最高にカッコいい武将です。