中島三郎助。
武士の本懐とは何か。
それを、最期まで体現した男がいた。
彼は旗本ではない。
長州や薩摩のような雄藩の出でもない。
けれど、幕府に仕え、忠義を尽くした。
その忠義は、やがて五稜郭の地で燃え尽きることとなる。
浦賀奉行所の武士
1821年、江戸の浦賀に生まれる。
父も浦賀奉行所の与力。息子の三郎助もまた、家職を継いだ。
彼の名が初めて歴史に登場するのは、あの黒船来航のとき。
ペリー艦隊を最初に迎えた男、それが中島三郎助だった。
英語を学び、外交の先頭にも立った。
まさに時代の転換点にいた武士だった。
忠義の行き先
やがて幕末の波が激しさを増すと、彼は戊辰戦争へ。
幕府に殉じる覚悟を決めた。
新政府軍に押される中、榎本武揚とともに北へと渡る。
たどり着いたのは、蝦夷地――五稜郭。
ここで彼の最後の戦いが始まる。
すでに幕府は倒れ、戦の勝敗も決していた。
だが彼にとって、それは問題ではなかった。
忠義を、どう貫くか。それだけだった。
父として、武士として
1869年5月。新政府軍の総攻撃が始まる。
激戦のなか、彼は銃を手に応戦。
その隣には、なんと二人の息子がいた。
親子三人、並んで銃を構えた。
忠義とは、教えるのではなく、共に貫くものだった。
そして、そのまま三人は戦死する。
父も、子も、武士として最期を迎えた。
まとめ:最期まで「徳川の武士」だった人
中島三郎助は、有名な志士でもない。
だが、その忠義は、誰よりも深かった。
もう誰も戦っていない。
それでも、自分の役目を果たすために、最後まで立ち続けた。
それが武士の本懐だと信じていた。
幕府が倒れても、志が倒れたわけではない。
中島三郎助――幕末の片隅で、最も武士らしかった男である。