042【寺田屋のお登勢】幕末を見守った、京の宿の肝っ玉女将

寺田屋のお登勢。

京・伏見の宿「寺田屋」を取り仕切った女将である。

けれど彼女の人生は、ただの宿屋の女将では終わらなかった。

幕末の志士たちを迎え、守り、時に逃がし、時代の奔流を見届けた。

彼女のまなざしは、激動の時代の奥深くまで届いていた。

京・伏見の女将として、静かに時代を見つめる

お登勢は、文政年間(1820年代頃)に生まれたとされる。

伏見の「寺田屋」に嫁ぎ、女将として宿を切り盛りしていた。

その宿に、いつしか集まってきたのが、薩摩や長州の志士たちだった。

坂本龍馬、西郷隆盛、桂小五郎――。

お登勢は、彼らをただの宿泊客ではなく、時代を背負う者として見ていた。

寺田屋事件と龍馬との絆

慶応2年(1866年)、寺田屋に幕府の役人が踏み込んだ。

坂本龍馬の命を狙った「寺田屋事件」である。

このとき、龍馬の命を救ったのは、妻・おりょうの機転だったが――

実は、お登勢もまた、背後で奔走していた。

役人の動きを察知し、龍馬や志士たちをかばう。

命がけで守ったのだ。

この事件以降、寺田屋は幕府からもにらまれる存在となる。

だが、お登勢は逃げなかった。

女将として、宿の扉を開き続けた。

幕末の志士たちにとっての「母」

お登勢は、ただの世話女房ではなかった。

志士たちにとっては、京の「母」のような存在だった。

言葉少なに茶を出し、疲れた体を温める湯を用意する。

そのさりげない気配りに、多くの志士たちが癒やされた。

坂本龍馬も、寺田屋を「帰る場所」としていた。

命を懸ける男たちにとって、静かな夜と温かな食事は何よりの救いだった。

その場を整えていたのが、お登勢だった。

明治を迎え、静かに歴史に名を残す

幕末の嵐が過ぎ、明治という新しい時代が始まった。

お登勢は老いても、宿を守り続けた。

志士たちは去り、寺田屋は往時のにぎわいを失っていった。

それでも、彼女は笑っていた。

「命がけで生きた人たちが、ここにいた」と語るように。

お登勢が亡くなったのは明治末期。享年80を超えていたとされる。

その長い生涯は、語られることの少ないもう一つの幕末史だった。

まとめ:影から支えた、もう一つの幕末

お登勢は、刀を取ることも、政を動かすこともなかった。

けれど、彼女がいなければ、志士たちは命をつなげなかったかもしれない。

「寺田屋」という宿を通して、彼女は時代のうねりを受け止めた。

誰よりも多くの志士の顔を見送り、涙を知っていた。

名もなく、声も高くせず、しかし確かにそこにいた女将。

そのまなざしと覚悟は、今も伏見の街に息づいている。