
島津久光。
薩摩藩の実権を握りながら、将軍にもならず、幕府も倒さず。
けれど――動かしていた。
薩摩を、幕末を、日本を。
彼は常に「表」ではなく、「裏」にいた。
だからこそ、時に軽んじられ、誤解された。
だが歴史は知っている。
この男の一手が、何度も時代を動かしたことを。
名門・島津家に生まれて
1817年。
島津久光は、薩摩藩第10代藩主・島津斉興の五男として生まれた。
本来なら、藩主になる立場ではなかった。
だが、兄たちが早世したため、次第にその重みが久光にのしかかってくる。
そして1851年。
息子・忠義が藩主となると、久光は事実上の藩主として藩政を握るようになる。
このとき、すでに34歳。
控えめな見た目に反して、政治の目は鋭かった。
藩政改革を断行
久光がまず取り組んだのは、藩の立て直しだった。
財政再建、人材登用、軍制改革――。
それまでの藩政を一新する。
とりわけ目立ったのが、下級藩士の登用。
西郷隆盛や大久保利通も、このときに抜擢された。
西郷に至っては、島流しにされていた男だった。
その彼を呼び戻し、政治の中枢に据える。
「身分より実力」
それが、久光の判断基準だった。
文久の改革と“志士”とのすれ違い
1862年。
久光は自ら兵を率いて、上洛する。
「幕府にもの申す」ためだった。
その目的は、尊皇攘夷ではない。
公武合体――朝廷と幕府の共存を目指す穏健な改革だった。
しかし、このときの志士たちは、すでに倒幕に傾いていた。
「久光公はお公家様か」
そう嘲笑された。
西郷ですら、主君の判断に不満を持った。
このすれ違いが、のちの決裂へとつながっていく。
表に出ない力
久光は、自ら藩主にも政治家にもならなかった。
朝廷から「参与」に任ぜられても、名ばかりだった。
それでも、薩摩藩は動いた。
禁門の変では長州を打ち、
のちには長州と手を組み、幕府と対峙する。
この急転直下の外交は、実は久光の承認なしでは進まなかった。
西郷と大久保が表を走り、久光が背中を押していた。
そんな形で、維新のエンジンは回っていた。
維新後の孤独
明治維新が成る。
薩摩は政権の中心となる。
だが、そこに久光の名はなかった。
西郷は征韓論で政界を去り、
大久保は中央政府のトップとなった。
かつての家臣たちは、今や国家の主役。
久光は政府に対し、「待遇が軽すぎる」と抗議する。
ついには明治天皇に直訴しようとして、止められた。
彼の時代は、確かに終わっていた。
最後まで“公”に尽くす
1877年、西南戦争が起こる。
西郷隆盛が新政府に反旗を翻した。
かつての側近が、国家の敵になった。
久光はこのとき、あえて沈黙する。
西郷をかばいもせず、非難もせず。
だが、その心中は、計り知れない。
同年、病に倒れる。
そして1887年、静かに息を引き取る。
その最期まで「公のため」に尽くした男だった。
まとめ
島津久光は、倒幕の剣を振るわなかった。
血で時代を染めることも望まなかった。
けれど、誰よりも先に、改革に動いた。
誰よりも早く、幕末の構造を変えた。
彼は表に立たなかったが、動いていた――
時代を、藩を、人を。
それが、島津久光という男の真の姿だった。