010【近藤勇】武士に憧れ、武士を貫いた“誠”の男

幕末。

世は刀と銃が入り乱れる混沌の時代。

その渦中で、「武士ではなかった男」が、命を賭して“武士道”を生き抜いた――それが、近藤勇こんどう いさみでした。

華やかな英雄ではないかもしれない。

けれど、信念を持ち、仲間を守り、最後までその道を貫いた近藤の姿は、今なお多くの人の胸を打ちます。

今回は、そんな彼の生き様を、柔らかく、わかりやすく紐解いていきましょう。

武士に憧れた“百姓の子”

近藤勇は1834年、武蔵国多摩郡むさしのくに たまぐん(現在の東京都調布市付近)に生まれました。

実は彼、生まれは百姓。つまり、武士ではありません。

けれど幼い頃から「剣の道」に憧れ、天然理心流という剣術道場に通い詰め、ついにはその道場の養子となり、免許皆伝を得ます。

この頃から、彼の中には明確な目標がありました。

「ただ剣が強いだけでは意味がない。俺は、武士になりたいんだ」

貧しい農家に生まれながらも、“こころざし”ひとつで武士を目指した近藤。

その目は、いつもまっすぐ前を向いていました。

新選組という戦場

1863年、幕府の命で上洛した浪士隊の一員として、近藤は京都へ向かいます。

ここで、土方歳三ひじかた としぞう沖田総司おきた そうじ山南敬助やまなみ けいすけらと共に、後の「新選組」を結成。

新選組は、京都の治安維持を担う武士集団――けれど、ただの“警察”ではありません。

彼らは、倒幕派とうばくはや過激な攘夷志士じょういししと命がけでぶつかる、まさに“命のやりとり”の日々。

中でも近藤は、常に最前線に立ち、自ら剣を振るいました。

「武士たるもの、命を惜しむな。誠を貫け」

新選組の旗に刻まれた「誠」の文字――それは、近藤の生き様そのものだったのです。

名を上げた池田屋事件

1864年、京都で起きた「池田屋事件」。

尊王攘夷派の志士たちが集まり、京都で大規模な放火を計画していたこの事件。

それを未然に防ぎ、一網打尽にしたのが新選組でした。

近藤はこの作戦の中心となり、自ら数名の手勢を率いて斬り込みます。

彼の果敢な戦いぶりにより、京都の町は守られ、一躍「新選組」の名は広まりました。

けれど――これが彼らにとっての“頂点”であり、同時に“終わりの始まり”でもあったのです。

時代の波に抗って

時が経ち、倒幕の流れはますます加速。

新政府軍が勢いを増す中、近藤たちは旧幕府側として闘い続けました。

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで敗れた新選組は江戸に退き、さらに北へと落ち延びていきます。

それでも近藤は諦めませんでした。

「武士の誠とは、主君に最後まで忠義を尽くすことだ」と。

しかし、その逃避行の中、彼は新政府軍に捕らえられてしまいます。

最期の言葉

1868年5月17日――

近藤勇、斬首。享年34歳。

そのとき、彼の口から洩れたのは、こんな言葉だったと伝わります。

「武士として死ねることを、誇りに思う」

百姓の子として生まれ、剣を磨き、仲間を守り、命を懸けて生き抜いた。

その生涯に一片の悔いなし――そう言わんばかりの、堂々たる最期でした。

まとめ:真っ直ぐな“誠”を生きた男

時代は変わり、幕府は消え、新政府が誕生しました。

けれど、近藤勇が貫いた“武士道”は、今も色褪せていません。

どんな立場に生まれても、信じる道を貫く。

それがどれほど困難で、報われなくても――

「俺は、武士になりたかった」

その願いを、最後の最後まで貫き通した男、近藤勇。

彼の“誠”は、現代に生きる私たちにも、静かに語りかけているようです。――「お前の信じる道を、ちゃんと歩いてるか?」と。