049【中島三郎助】徳川のために、最後の最後まで戦った男

中島三郎助。

武士の本懐とは何か。

それを、最期まで体現した男がいた。

彼は旗本ではない。

長州や薩摩のような雄藩の出でもない。

けれど、幕府に仕え、忠義を尽くした。

その忠義は、やがて五稜郭の地で燃え尽きることとなる。

浦賀奉行所の武士

1821年、江戸の浦賀に生まれる。

父も浦賀奉行所の与力。息子の三郎助もまた、家職を継いだ。

彼の名が初めて歴史に登場するのは、あの黒船来航のとき。

ペリー艦隊を最初に迎えた男、それが中島三郎助だった。

英語を学び、外交の先頭にも立った。

まさに時代の転換点にいた武士だった。

忠義の行き先

やがて幕末の波が激しさを増すと、彼は戊辰戦争へ。

幕府に殉じる覚悟を決めた。

新政府軍に押される中、榎本武揚とともに北へと渡る。

たどり着いたのは、蝦夷地――五稜郭。

ここで彼の最後の戦いが始まる。

すでに幕府は倒れ、戦の勝敗も決していた。

だが彼にとって、それは問題ではなかった。

忠義を、どう貫くか。それだけだった。

父として、武士として

1869年5月。新政府軍の総攻撃が始まる。

激戦のなか、彼は銃を手に応戦。

その隣には、なんと二人の息子がいた。

親子三人、並んで銃を構えた。

忠義とは、教えるのではなく、共に貫くものだった。

そして、そのまま三人は戦死する。

父も、子も、武士として最期を迎えた。

まとめ:最期まで「徳川の武士」だった人

中島三郎助は、有名な志士でもない。

だが、その忠義は、誰よりも深かった。

もう誰も戦っていない。

それでも、自分の役目を果たすために、最後まで立ち続けた。

それが武士の本懐だと信じていた。

幕府が倒れても、志が倒れたわけではない。

中島三郎助――幕末の片隅で、最も武士らしかった男である。