
戦国時代といえば、戦・戦・戦!……
ですが、一方で「文化の力こそ国を治めるカギ」と信じた武将もいました。
それが、今回の主役――
大内義隆です。
戦国乱世のなか、山口の地を“西の京”と呼ばれるほど文化都市に育てあげた、知と美の大名。
その優雅で、でもちょっと儚い人生をのぞいてみましょう。
名門・大内家のエリートとして誕生!
義隆は、1507年ごろに周防(山口県)で誕生。
父・大内義興は、室町幕府の実力者として名を馳せた名将。
そんな父のもと、義隆もまた文武をしっかり学びます。
とくに文学・学問・宗教など文化方面への関心が深く、
「これが本当に戦国大名!?」
と思うほどのインテリぶり。
やがて家督を継いだ義隆は、西国最大級の勢力へと家を成長させていきます。
西の京・山口、文化の中心地へ!
義隆の本領は、「戦より文化」で治めるスタイル。
山口には、京都から多くの学者・僧・文化人を招き入れ、町づくりにもその美学をたっぷり反映!
- 唐様の寺院
- 雅な庭園
- 詩文、茶道、禅の盛行
とにかく「山口がオシャレで知的な都になった」のは、義隆の功績なんです。
そして!
あのフランシスコ・ザビエルが日本に来たとき、彼を快く受け入れたのも義隆。
西洋文化にもオープンだった、まさに先見の明ある殿様だったのです。
しかし……武断派・陶晴賢との対立
順風満帆に見えた義隆の治世でしたが――
徐々に、家中で不満が募ります。
「文化もいいけど、戦に弱すぎない……?」
「うちらは武士だろ!」
という武断派の筆頭が、家臣・陶晴賢。
彼との対立が激化し、ついにはクーデターへ。
1551年の“陶の乱”で、義隆は攻められ、自ら命を絶つという形でその生涯を閉じました。
享年はわずか45歳ほど――
大内家もその後、滅亡の道をたどります。
おわりに
戦の世にあって、「力よりも美しく、優しい国づくりを」と願った大内義隆。
戦国という荒波の中では“非現実的”と言われたかもしれませんが、その理想は、今も山口の地に息づいています。
彼がつくった文化都市・山口は、今でも「西の京」として、その名を誇り続けているのです。
戦だけがすべてじゃない――
そんなことを、そっと教えてくれる戦国大名、大内義隆。