039【大内義隆】文化に生きた西国の王!絢爛たる栄華と、静かな終幕

戦国時代といえば、戦・戦・戦!……

ですが、一方で「文化の力こそ国を治めるカギ」と信じた武将もいました。

それが、今回の主役――

大内義隆おおうち よしたかです。

戦国乱世のなか、山口の地を“西の京”と呼ばれるほど文化都市に育てあげた、知と美の大名

その優雅で、でもちょっと儚い人生をのぞいてみましょう。

名門・大内家のエリートとして誕生!

義隆は、1507年ごろに周防(山口県)で誕生

父・大内義興おおうち よしおきは、室町幕府の実力者として名を馳せた名将。

そんな父のもと、義隆もまた文武をしっかり学びます。

とくに文学・学問・宗教など文化方面への関心が深く、

「これが本当に戦国大名!?」

と思うほどのインテリぶり。

やがて家督を継いだ義隆は、西国最大級の勢力へと家を成長させていきます。

西の京・山口、文化の中心地へ!

義隆よしたかの本領は、「戦より文化」で治めるスタイル。

山口には、京都から多くの学者・僧・文化人を招き入れ、町づくりにもその美学をたっぷり反映!

  • 唐様の寺院
  • 雅な庭園
  • 詩文、茶道、禅の盛行

とにかく「山口がオシャレで知的な都になった」のは、義隆の功績なんです。

そして!

あのフランシスコ・ザビエルが日本に来たとき、彼を快く受け入れたのも義隆。

西洋文化にもオープンだった、まさに先見の明ある殿様だったのです。

しかし……武断派・陶晴賢との対立

順風満帆に見えた義隆の治世でしたが――

徐々に、家中で不満が募ります。

「文化もいいけど、戦に弱すぎない……?」

「うちらは武士だろ!」

という武断派の筆頭が、家臣・陶晴賢すえ はるかた

彼との対立が激化し、ついにはクーデターへ。

1551年の“陶の乱”で、義隆よしたかは攻められ、自ら命を絶つという形でその生涯を閉じました。

享年はわずか45歳ほど――

大内家もその後、滅亡の道をたどります。

おわりに

戦の世にあって、「力よりも美しく、優しい国づくりを」と願った大内義隆おおうち よしたか

戦国という荒波の中では“非現実的”と言われたかもしれませんが、その理想は、今も山口の地に息づいています。

彼がつくった文化都市・山口は、今でも「西の京」として、その名を誇り続けているのです。

戦だけがすべてじゃない――

そんなことを、そっと教えてくれる戦国大名、大内義隆。