016【井伊直政】赤備えで天下を駆ける!家康が惚れ込んだ若きエース

戦国時代の名将たちの中でも、若くしてスターのように輝き、家康の信頼を一身に集めた人物がいました。

その名は――井伊直政いい なおまさ

赤備あかぞなえ」で名を馳せたイケメン武将であり、徳川四天王のひとりにも数えられる、まさに家康軍団の若きエース!

今回は、そんな直政のドラマチックな生涯を、やわらかく楽しくご紹介します♪

井伊家再興と、徳川との出会い

井伊直政いい なおまさは**1561年、遠江国とおとうみのくに(現在の静岡県浜松市周辺)**に生まれます。

実は井伊家は、直政が生まれたころには一度断絶状態。父・井伊直親いい なおちか謀反むほんの疑いで殺され、母も出家、家臣たちも離散という、なかなかハードなスタートだったのです。

しかし直政は、そんな逆境を跳ね返して育ち、やがて徳川家康に見いだされて小姓こしょうとして仕えることに。

その美男子っぷりと礼儀正しさ、さらに才能に満ちた姿に、家康はすぐさま目をかけました。

ここから、井伊家の復興と、若き日の出世街道がスタートします!

真紅の甲冑「赤備え」の伝説

井伊直政いい なおまさといえば、何といってもそのトレードマークが真っ赤なよろい=「赤備あかぞなえ」

この赤備えは、もともとは武田軍最強と名高い山県昌景やまがた まさかげの部隊が使用していたもの。

その武田家が滅亡すると、家康はその装備や人材を直政に預け、「徳川の赤備え」として再生させたんです。

赤一色の軍勢はまさに戦場のアイドル!

敵にとっては恐怖の象徴であり、味方にとっては勇気の源。まさに目立って強い、戦国の花形でした。

若くして徳川四天王に

直政は20代から数々の戦に出陣し、関ヶ原の戦いでは徳川本陣の先鋒を任されるなど、大活躍!

あの「徳川四天王(本多忠勝ほんだ ただかつ榊原康政さかきばら やすまさ酒井忠次さかいただつぐ井伊直政いい なおまさ)」のひとりに数えられたのも納得の実力です。

関ヶ原では島津軍との激戦で重傷を負いながらも敵を退け、東軍勝利の立役者となりました。

しかしこの傷がもとで、わずか42歳という若さでこの世を去ってしまうのです…。

まさに、燃え尽きるように生きた、戦国時代の流れ星のような存在でした。

おわりに

井伊直政いい なおまさは、忠義を尽くし、武を極め、赤備えというシンボルで人々を魅了した美しき若武者でした。

彼の姿は、後の大名・彦根藩の礎となり、「井伊の赤鬼」の異名と共に、歴史に深く刻まれています。

その生涯は短くても、真っ直ぐで華やかで、戦国という舞台に最高の彩りを添えた存在でした。

今もなお、戦国ファンの間で熱く語られる井伊直政――

強さと美しさを兼ね備えた戦国のアイコンとして、ずっと輝き続けています。