はじめに
戦国の覇者・徳川家康。
その四男として生まれたのが、松平忠吉です。
若くして期待を背負った、まさに”未来のエース”でした。
生まれながらのサラブレッド
忠吉は、1580年に誕生。
母は西郷局という側室で、家康のたくさんの子どもたちの中でも、特に可愛がられました。
幼いころから賢く、将来を嘱望されます。
小牧・長久手の戦いで名を上げる
1584年、小牧・長久手の戦い。
わずか4歳だった忠吉ですが、すでに家康の後継候補として名が挙がるほどの注目株でした。
武将としても才能を発揮
成長した忠吉は、関ヶ原の戦いで徳川軍として参戦。
若くして軍を率い、見事な戦いぶりを見せます。
その功績で、尾張清洲52万石という大大名に!
将来の徳川政権を支える柱と目されました。
しかし、突然の別れ
ところが、順風満帆だった人生に暗雲が…。
関ヶ原の翌年、1607年に病を患い、27歳でこの世を去ってしまいます。
家康にとっても、大きな痛手でした。
おわりに:惜しまれた未来の大名
松平忠吉は、若くして実力を示したエリート武将でした。
彼が長生きしていれば、徳川家の未来はまた違ったものになっていたかもしれません。