
戦国時代、敵軍に「山県が来たぞ!」とその名を聞くだけで震え上がる者がいたとか。
その恐れられた武将の名こそ――
山県昌景!
真っ赤な甲冑に身を包んだ精鋭部隊「赤備え」を率い、まるで疾風のように戦場を駆け抜けたその姿は、“武田の猛将”の名にふさわしい、圧倒的な存在感!
今回はそんな山県昌景の一生を、情熱たっぷり&やわらかくご紹介します!
武田信玄に仕えた、冷静沈着な実力派
昌景は1524年ごろ、甲斐国(現在の山梨県)に生まれたとされています。
もともとは武田家の家臣団のひとりでしたが、彼の実力と忠誠心を見た武田信玄に抜擢され、やがて精鋭部隊「赤備え」の隊長に任命されます。
この「赤備え」とは、武田軍の中でも特に選ばれし者たちで構成された精鋭中の精鋭!
真っ赤な甲冑に身を包み、戦場では敵を蹴散らしながら突進する超攻撃型部隊だったのです。
赤備えの象徴として戦場に君臨!
その名声が一気に高まったのが、川中島の戦い。
上杉謙信との一進一退の激戦のなかで、山県昌景は赤備えを率いて猛攻を仕掛け、敵軍を分断!
さらにその後も、
- 三方ヶ原の戦い
- 長篠の戦い(に至るまでの武田の拡大戦)
などなど、各地の合戦で抜群の戦術眼と指揮能力を発揮します。
彼の戦いぶりは、ただの“豪腕”ではありません。
実はとっても冷静で戦術家タイプ。
突進力と頭脳のバランスがとれた、まさに「理想の武将」だったんです。
長篠の戦いで迎えた壮絶な最期
そんな昌景に訪れた運命の合戦が、1575年の長篠の戦い。
織田・徳川連合軍の前に、武田軍は苦戦を強いられます。
昌景は、撤退命令が下る中でも殿として味方の退却を支え、最後まで赤備えをまとめて奮戦。
そして――
敵中突破を試みるも、多勢に無勢。
ついに討ち死にしてしまいます。
その最期は、壮絶そのもの。
でも、主君のため、仲間のために命を懸けて戦った姿は、今でも語り継がれています。
おわりに
山県昌景は、ただの猛将ではありませんでした。
冷静さと判断力を備えつつ、命を賭して仲間を守る“心ある武士”。
その姿は、まさに「理想のサムライ」。
赤備えという伝説をつくり、今なお多くの戦国ファンの心を熱くさせています。
もしあなたが「静かに燃える本物の強さ」に惹かれるなら、山県昌景の生き様はドンピシャかもしれません!