006【武田信玄】風林火山を掲げた戦国のカリスマ!信じる力で時代を駆け抜けた男

はじめに

戦国時代、天下取りを目指す者たちがひしめく中、「軍神ぐんしん」上杉謙信すら一目置いた男がいました。

その名は――武田信玄たけだしんげん

甲斐(今の山梨県)を拠点に、戦国最強とも称された「騎馬軍団」を率い、「風林火山ふうりんかざん」の軍旗のもと、信念の戦を貫いたカリスマ武将です!

今回は、そんな信玄のカッコよくも波乱万丈な人生を、やわらかく、でも熱くご紹介します🔥

若き獅子、乱世に現る!

武田信玄は1521年、甲斐国かいのくに(現在の山梨県)に誕生。

幼名は「太郎」。

父・武田信虎のもとで育ちましたが、このお父さんが…なかなかクセのある人物でして…。

重税や無茶な政治に不満を持った家臣たちは、やがて信玄を担ぎ上げ、なんと20歳のときに父を追放してしまいます。

こうして信玄は、若くして「甲斐の国主」に――

ここから、戦国史に名を刻む男の伝説が始まります。

風林火山――戦いの哲学

「そのはやきこと風のごとく、そのしずかなること林のごとく、侵掠しんりゃくすること火のごとく、動かざること山のごとし」

これは信玄の軍旗に記された言葉。

孫子の兵法をもとにしたもので、信玄の戦い方と精神を象徴する超有名フレーズです。

実際の信玄は、豪快なだけではなく、戦略・情報戦・兵站へいたんまでしっかり整えた、めちゃくちゃ緻密な軍略家!

「信玄に勝てる者はいない」とまで言われたのも納得です。

最大のライバル、上杉謙信との宿命バトル!

信玄といえば――そう!

越後の龍・上杉謙信との「川中島の戦い」!

お互い一歩も譲らず、なんと5度も激突

中でも有名なのが第4次川中島の戦い(1561年)。

この戦いでは、謙信が単騎で信玄の本陣に斬り込むという、まるで時代劇のような展開に🔥

信玄はとっさに軍配ぐんばいで受け止めたという逸話が残っています。

お互いを認め合いながらも戦う、まさに「宿命のライバル」。

この二人の戦いは、戦国史でもっともロマンあふれる名勝負といえるでしょう!

信玄の理想郷「信濃」開発と民の幸せ

信玄はただの武将ではありません。

政治家としても超一流でした!

・治水工事で農地を守り、

・商業を活発にし、

・兵士たちには年金制度のような仕組みも提供!

特に「信玄堤しんげんづつみ」という堤防工事は、今も山梨県に残っています。

まさに、「領民ファースト」のリーダー!

だからこそ、信玄は領民からも家臣からもめちゃくちゃ愛されていたんですね。

そして、天下目前の最期――

信玄は、天下統一に向けていよいよ京を目指します。

織田信長や徳川家康とぶつかる覚悟を持って、ついに大規模な遠征を開始!

しかし――その途中で病に倒れてしまうのです。

1573年、信玄は53歳でこの世を去りました。

その死は3年間秘密にされたといわれています。

「信玄の死が知られたら、敵に攻め込まれる」

それだけ、彼の存在は重かったんですね。

おわりに

武田信玄は、「力」だけでなく「信」を持って戦った男でした。

義を貫く上杉謙信とぶつかり、知略を駆使して徳川家康を圧倒し、民の暮らしを第一に考える政治を行った。

その生き様はまさに、

「武の美学」と「人の道」を両立させた伝説の武将

もし彼があと10年生きていたら…

日本の歴史はまったく違っていたかもしれません。