
大鳥圭介。
西洋の知識をいち早く学び、兵学・外交に長けた男。
幕府が揺れようとも、明治が迫ろうとも。
彼はただ「理」に従い、「近代」に希望を見た。
武士でありながら、科学と戦術に生きたその姿は、どこか未来の人のようでもあった。
赤穂浪士の子孫、理を重んじた少年時代
1833年、播磨国赤穂に生まれる。
かの有名な「忠臣蔵」の赤穂浪士の血を引く家に生まれた。
だが彼が重んじたのは「忠」よりも「理」。
生まれ持った聡明さと好奇心で、幼い頃から学問にのめり込んだ。
やがて長崎へ出て蘭学を学び、さらには兵学・砲術へと進む。
西洋式の戦術と技術に触れたことで、彼の視野は一気に広がっていった。
「これからの時代、日本は知識で生き残らねばならぬ」
そう確信した瞬間だった。
幕臣として、理想の軍を夢見る
やがて幕府に仕え、洋式兵学を教える立場となる。
彼の教え子の中には、のちに明治を担う若者たちも多くいた。
大鳥は「教えることは戦うこと」と考えた。
命令ではなく、理論と理解こそが軍を動かすと信じていた。
戊辰戦争が始まると、彼は幕府軍の軍事総裁に抜擢される。
近代兵学の知識を活かし、会津や東北で戦い抜いた。
けれど、流れはすでに「明治」へと傾いていた。
函館戦争、理想とともに戦場へ
敗戦の連続のなか、彼は榎本武揚らとともに箱館(函館)へ渡る。
旧幕府軍、最後の拠点。
蝦夷地に「新しい日本」を作ろうという夢を抱いた。
そこでは「身分」に関係なく、能力ある者に任務を与えた。
それはまさに、大鳥圭介が理想とした「 meritocracy(実力主義)」の世界。
だがその夢も、まもなく潰える。
1869年、五稜郭の戦いで敗北。
彼は捕らえられ、死を覚悟する。
明治へ――許され、生き抜いた知性
だが、彼は処刑されなかった。
その才能と見識を惜しまれ、明治政府に仕えることとなる。
以降、大鳥は外交官として世界を駆け回った。
清国・ロシア・ドイツなどで活躍し、「民間外交の先駆け」とも言われた。
学問と理性で武士を超え、近代日本を支えたのである。
晩年には漢詩や随筆を楽しみ、静かに過ごした。
1911年、静かにこの世を去る。享年79。
まとめ
大鳥圭介の人生は、戦でも政治でもなかった。
それは「知の実践」だった。
自ら学び、教え、戦い、外交に挑んだ。
すべては「日本が生き残るため」に。
刀を振るうより、言葉を重ねること。
怒鳴るより、説くこと。
大鳥圭介は、知こそが力であると信じた。
時代がどう変わろうとも、その信念を曲げなかった。
敗者の中の勝者。
そう呼びたい男が、ここにいる。