
佐久間象山。
信州松代に生まれ、天を睨んだ思想家。
彼は学び、叫び、叱咤し、未来を描いた。
日本を変えるために、命を削った。
だが、早すぎた。
その思想は、まだ誰にも理解されなかった。
理解された時、もう彼はいなかった。
それでも、彼の残した言葉は生き続けている。
松代の神童、江戸へ出る
佐久間象山は1811年、信州松代藩に生まれた。
幼い頃から抜群の記憶力と論理力を発揮し、神童と呼ばれた。
江戸に出ると、儒学・兵学・数学・蘭学・物理――あらゆる学問を吸収。
「和魂洋才」という考えを掲げ、日本と西洋を融合させる思想を唱え始める。
それは当時としては、あまりに新しすぎた。
彼のもとには、全国から志を抱いた若者たちが集まり始める。
その中には、吉田松陰や勝海舟もいた。
のちの幕末を動かす若者たちが、象山の思想に火を灯された。
黒船来航、吼える象山
1853年、ペリーが黒船で来航すると、日本は大きく揺れた。
幕府は困惑し、保守派と改革派で真っ二つに分かれる。
そのとき象山は、はっきり言った。
「開国すべし。技術と力を学ばねば、日本は沈む」と。
大砲を自ら設計し、電信機を作り、軍艦設計図を描いた。
学者というより、もはや科学者であり、軍略家であった。
彼の口は激しかった。
妥協を許さず、誰にも遠慮せず、真っ直ぐに主張した。
だからこそ、敵も多かった。
幕府からもにらまれ、長く蟄居を命じられることになる。
再び江戸へ、だが運命は皮肉に
時代が再び象山を必要としたのは、幕末の混乱が極まった頃だった。
1864年、京都見回りの役を命じられ、江戸から京へ向かう。
だが、時すでに遅し。
象山の名はすでに「開国派の象徴」として危険視されていた。
京都に入ったわずか数日後、象山は刺客に襲われる。
享年54。言葉を持たずして、時代から消された。
その死を知った吉田松陰は慟哭し、勝海舟は沈黙した。
時代が、ようやく彼に追いつきかけていたときだった。
忘れられぬ言葉たち
佐久間象山が遺した言葉は、今も深い。
「英才を育てることこそ、国を救う道である」。
その信念は、のちに育った弟子たちによって実を結ぶ。
勝海舟は海軍を作り、松陰の門下は維新を起こした。
彼自身は、革命を見届けることなく消えた。
だが、その思想の種は、確実に撒かれていた。
まとめ
佐久間象山は、まっすぐすぎた。
頭がよすぎた。
だから、誰よりも早く時代に立ち向かい、
誰よりも早く、時代に斬られた。
けれど、彼の蒔いた言葉は、土の中で根を張り、
時代の風とともに、日本を動かした。
佐久間象山。
その火花のような生涯は、今も、静かに日本を照らしている。