011【伊藤博文】農家の少年が“日本初の総理大臣”になるまで

「日本の総理大臣、最初は誰か知ってる?」

そう聞かれて、「伊藤博文いとう ひろぶみ」と答えられる人は多いでしょう。

でも――

その名前の裏に、どんな物語があるかを知っている人は、きっと少ない。

貧しい農家に生まれた少年が、なぜ国家のトップにまで上り詰めたのか。

なぜ、明治という激動の時代を駆け抜け、日本のかたちをつくったのか。

今回は、伊藤博文という男の「人間らしい一面」とともに、その波乱万丈な生涯を、柔らかく、わかりやすくご紹介します。

武士になりたかった百姓の子

伊藤博文は1841年、現在の山口県・長州藩にあたる地域で、農民の家に生まれました。

幼名は「利助りすけ

家は貧しく、決して恵まれた環境とは言えません。

しかし、彼には子どもの頃から「武士になりたい」という強い願いがありました。

勉強が好きで、頭の回転も速く、やがて長州藩士・吉田松陰よしだしょういん松下村塾しょうかそんじゅくに入門。

ここで高杉晋作、久坂玄瑞くさか げんずい、桂小五郎(後の木戸孝允きど たかよし)と出会い、若き志士たちと交流する中で、彼の中に「自分はこの国を変える」という強い志が芽生えていきます。

イギリス留学と、西洋文明との出会い

幕末の動乱期、博文は藩命を受けてイギリスへ密航留学します。

船に揺られ、見知らぬ異国の地で目にしたもの――それは、科学、技術、法、経済……すべてにおいて先を行く西洋文明でした。

驚きと同時に、危機感が彼を突き動かします。

「このままじゃ、日本は列強に飲み込まれてしまう」

帰国後、彼は尊王攘夷から「開国と近代化」へと思想を転換。

倒幕後の新政府に参加し、若くしてその中心人物になっていきます。

憲法をつくった男

明治時代、伊藤博文の名を一気に知らしめたのが「大日本帝国憲法」の制定です。

憲法とは、国家のルールの“設計図”。

当時、日本にそんな概念はなく、彼は再びヨーロッパへ渡り、憲法のあり方を一から学びました。

「日本に合う、日本のための憲法をつくるんだ」

何年もかけて練り上げたその成果が、1889年の憲法発布につながり、日本は“近代国家”への一歩を踏み出します。

同時に、彼は「内閣制度」を導入し、なんと日本で初めての内閣総理大臣に就任。

ここに、“宰相・伊藤博文”が誕生しました。

権力者として、策士として

伊藤博文は、一見すると“まじめな官僚タイプ”に思われがちですが――

実は、とっても人間味あふれる人物でもありました。

愛嬌があり、酒好き、女好きで、冗談もよく飛ばす。

ときには、周囲を煙に巻くような策略家の顔を見せながら、その裏では「日本の独立を守る」ために必死で外交にあたっていたのです。

明治の元勲として、4度の総理大臣を務め、韓国併合問題にも関わる中、彼は常に「国家」と「民」の未来を見据え続けました。

志半ばの凶弾

1909年、韓国・ハルビン駅にて、伊藤博文は朝鮮独立運動家・安重根あん じゅうこんの凶弾に倒れます。
享年68。

「私は日本を、アジアを、守るつもりだった」

その思いが伝わらないままの死――

けれど、彼の残した制度、思想、憲法の土台は、今の日本にも脈々と受け継がれています。

まとめ

伊藤博文は、政治家であり、革命家であり、外交官であり、策士であり、そして何より“情熱家”でした。

偉人と聞くと、どこか遠い存在に思えてしまうけれど、彼の人生には「人間くささ」と「泥くささ」があふれています。

百姓の子が、学び、悩み、笑い、怒り、時に遊び、時に泣きながら、この国のかたちを必死につくっていった――

そんな伊藤博文の姿は、今を生きる私たちに問いかけてくれるようです。

「君は、自分の手で未来を変える気があるかい?」