050【吉川元春】“剛の将”と呼ばれた毛利の盾

はじめに

戦国の世を語るとき、「三本の矢」の逸話で知られる毛利元就(もうりもとなり)は有名ですね。

その元就の息子たちもまた、個性豊かで優秀な武将ばかり!

その中で「剛」の象徴ともいえる存在が、今回ご紹介する吉川元春です。

一歩も引かぬ豪胆な将――その生き様はまさに“戦国の盾”!

今回はそんな彼のドラマチックな戦国ストーリーをお届けします♪

武勇一筋!元就の次男に生まれて

吉川元春は1530年、毛利元就の次男として生まれます。

兄は名参謀・小早川隆景。弟は当主・毛利輝元の父である隆元。

一族の中で元春は、**「とにかく戦が強い!」**という豪快なポジションでした。

元就が築いた毛利家の勢力を、まさに“剣と盾”で支えたのがこの人なんです。

10代の頃から実戦経験を重ね、すでに若武者として名を馳せていました。

吉川家を継ぎ、中国地方の守りを固める!

吉川家は元々、毛利家の分家のような存在。

元春はその家を継ぐ形で養子に入り、吉川元春として独立した武将になります。

この頃から彼の活躍は本格化。

特に中国地方での大内氏や尼子氏との戦いで、驚異の武勇を見せつけます。

彼が守りを担当すれば「もう安心!」と言われるほどの信頼ぶり。

戦場では前線に立ち、時に一騎打ちも辞さないタイプでした。

「俺が行くから、お前ら下がっとけ!」

そんなセリフが似合いそうな、まさに“戦国のゴリラ将軍”(誉めてます)!

宿敵・織田信長と対峙!

元春の人生のクライマックスは、やはり織田信長との対決でしょう。

信長が中国地方に進出してくると、毛利軍の防衛線に立ちはだかったのが元春。

彼は弟・小早川隆景と連携し、信長軍の名将・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と渡り合いました。

特に有名なのが「備中高松城の戦い」。

秀吉の水攻めで城は落ちますが、元春の踏ん張りがあったからこそ、毛利家は致命傷を避けられたのです。

秀吉いわく――

「元春ほどの男があと二人いたら、わしも危なかったかもしれぬ。」

…って言ったとか、言わなかったとか。

晩年とその最期

晩年の元春は、戦で負った体の疲れもあり、前線からは徐々に引退。

しかし、常に毛利家を支える“柱”であり続けました。

1586年、波乱の戦国時代を駆け抜けた彼は、そのまま静かに生涯を終えます。

その死は、まるで一頭の獅子が眠りについたようだった――と言われるほど。

おわりに:剛毅なる者の背中

吉川元春は、派手な武将ではないかもしれません。

けれど、彼がいなければ毛利家はここまで大きくなれなかった――

そんな“縁の下の最強支柱”でした。

まさに「剛の人」。

口数は少なくとも、その背中で家を守り、人を鼓舞し、敵を退ける。

そんな元春の姿は、時代を越えて胸を打ちます。

もし戦国時代に「頼りたい人ランキング」があれば、間違いなく上位に入っていたでしょう!