
戦国時代の西日本といえば、大内氏・毛利氏・陶氏――と有力武将がズラリ。
でも、そんな中でバチバチに火花を散らしていたのが、出雲の覇者・尼子氏!
その中でも、尼子晴久は、勇猛果敢で知られる戦国大名。
武力と執念で山陰地方を掌握しようとした、“戦の申し子”ともいえる存在です。
さあ、晴久の熱い戦国ライフをのぞいてみましょう!
尼子家のエースとして、早くから頭角を現す
晴久は1514年ごろ出雲で誕生。
祖父は尼子経久という、尼子家の黄金時代を築いた名将。
父の尼子晴久(はるひさ)は早世したため、晴久が家督を継ぐことになります。
まだ若かった晴久ですが、戦のセンスは抜群!
周辺の出雲、隠岐、伯耆、美作へと次々と領地を拡大し、一時は“山陰十カ国”を制したとも言われるほどの勢力を築きます。
宿敵・大内氏との抗争、そして一時の勝利
当時、西のライバルといえば大内義隆。
晴久はこの大内家とたびたびぶつかり、ついには大内の重臣・陶晴賢を撃退し、出雲に攻め入る快挙!
ここが晴久の人生のハイライトともいえる瞬間。
一時は中国地方で毛利・大内をしのぐ力を持ち、「尼子の時代が来た!」と誰もが思いました。
その拠点、月山富田城は、“難攻不落の山城”として名を馳せ、まさに山陰の要塞でした。
しかし、毛利元就の反撃が始まる…
しかし、歴史に登場する“策謀の天才”――
あの毛利元就が黙っていませんでした。
元就はじわじわと尼子家の周辺国を切り崩し、少しずつ晴久を追い詰めていきます。
晴久も粘り強く抗戦しましたが、病に倒れてしまい、1561年にこの世を去ります。
彼の死後、尼子家は急激に弱体化し、ついには毛利に滅ぼされる運命へ――。
おわりに
尼子晴久は、
「戦国の地図を塗り替えるかもしれなかった男」。
豪放磊落な武将でありながら、一族や領民からも慕われたカリスマでもありました。
その夢半ばで散った姿は切ないですが、
「たとえ散っても、戦って輝いた人生だった」
と思えるほど、
生き様そのものが戦国ロマンにあふれています。
「名を残せなかった英雄たち」にこそ、ドラマがある。
尼子晴久はまさに、そんな戦国のひとり。