040【尼子晴久】山陰の荒鷲!戦国を駆けた“出雲の戦鬼”

戦国時代の西日本といえば、大内氏・毛利氏・陶氏すえし――と有力武将がズラリ。

でも、そんな中でバチバチに火花を散らしていたのが、出雲の覇者・尼子氏あまごし

その中でも、尼子晴久あまご はるひさは、勇猛果敢で知られる戦国大名。

武力と執念で山陰地方を掌握しようとした、“戦の申し子”ともいえる存在です。

さあ、晴久の熱い戦国ライフをのぞいてみましょう!

尼子家のエースとして、早くから頭角を現す

晴久はるひさ1514年ごろ出雲で誕生

祖父は尼子経久あまご つねひさという、尼子家の黄金時代を築いた名将。

父の尼子晴久(はるひさ)は早世したため、晴久が家督を継ぐことになります。

まだ若かった晴久ですが、戦のセンスは抜群!

周辺の出雲いずも隠岐おき伯耆ほうき美作みまさかへと次々と領地を拡大し、一時は“山陰十カ国”を制したとも言われるほどの勢力を築きます。

宿敵・大内氏との抗争、そして一時の勝利

当時、西のライバルといえば大内義隆おおうち よしたか

晴久はるひさはこの大内家とたびたびぶつかり、ついには大内の重臣・陶晴賢すえ はるかたを撃退し、出雲に攻め入る快挙!

ここが晴久の人生のハイライトともいえる瞬間。

一時は中国地方で毛利・大内をしのぐ力を持ち、「尼子の時代が来た!」と誰もが思いました。

その拠点、月山富田城がっさんとだじょうは、“難攻不落の山城”として名を馳せ、まさに山陰の要塞でした。

しかし、毛利元就の反撃が始まる…

しかし、歴史に登場する“策謀の天才”――

あの毛利元就もうり もとなりが黙っていませんでした。

元就はじわじわと尼子家の周辺国を切り崩し、少しずつ晴久を追い詰めていきます。

晴久はるひさも粘り強く抗戦しましたが、病に倒れてしまい、1561年にこの世を去ります。

彼の死後、尼子家は急激に弱体化し、ついには毛利に滅ぼされる運命へ――。

おわりに

尼子晴久あまご はるひさは、

「戦国の地図を塗り替えるかもしれなかった男」

豪放磊落ごうほうらいらくな武将でありながら、一族や領民からも慕われたカリスマでもありました。

その夢半ばで散った姿は切ないですが、

「たとえ散っても、戦って輝いた人生だった」

と思えるほど、

生き様そのものが戦国ロマンにあふれています。

「名を残せなかった英雄たち」にこそ、ドラマがある。

尼子晴久はまさに、そんな戦国のひとり。