
戦国時代の九州――
といえば、島津家や大友家が思い浮かぶかもしれませんが、その間を縫って勢力を広げ、「肥前の熊」と恐れられた男がいました。
その名は、龍造寺隆信。
圧倒的な勢いで肥前を制し、九州統一へと邁進した彼の人生は、まさに“猛将”の物語。
今回はそんな隆信の、熱くて哀しい戦国ドラマをお届けします!
名門の家に生まれるも、波乱の幼少期
龍造寺隆信は1529年、肥前(現在の佐賀県)に生まれました。
龍造寺家は名門の家柄でしたが、時代は下剋上の真っ只中。
幼い隆信は、家の勢力が弱まりつつある中で育ちました。
しかし、若き隆信はただ者ではありません。
次第に実権を握り、自らの力で家を再興していきます。
やがて家督を継ぎ、力強い統治と軍事力で周囲を圧倒。
その活躍ぶりから、彼はいつしかこう呼ばれるようになります――
「肥前の熊」と。
圧倒的な武力で肥前制覇!
隆信は、隣接する少弐氏や有馬氏を次々と打ち破り、肥前国内での覇権を確立していきます。
特に1578年、宿敵・少弐氏を滅ぼした戦いは圧巻。
ここで名実ともに肥前の支配者となった隆信は、さらなる野望――
九州全土の制覇を目指し始めます。
そして勢いそのままに、筑後や肥後へも進出。
一時は九州の3分の1を支配する大大名にまで上り詰めたのです!
島津との激突!運命の沖田畷の戦い
しかし、隆信の前に立ちはだかるのが、南九州の覇者・島津家。
なかでも、戦術の天才・島津家久は手ごわい相手でした。
1584年、ついに両者は激突――沖田畷の戦いです。
この戦い、数では龍造寺軍が圧倒的に有利だったのですが…
島津軍の巧妙な包囲作戦により、なんと龍造寺軍は大混乱!
そして、隆信自身も討ち死にしてしまうのです。
この敗戦により、隆信の夢であった九州統一の道は閉ざされてしまいました。
おわりに
龍造寺隆信は、派手なカリスマ性よりも、地道な努力と実力でのし上がった、戦国のリアリスト。
その強さは、当時の九州で他に並ぶ者がいないほどで、だからこそ「肥前の熊」と恐れられ、敬われたのでしょう。
その最期は悲劇でしたが、彼が築いた基盤は、のちに佐賀藩としての繁栄に繋がっていきます。
派手じゃなくても、堅実に力を重ねる――
そんな生き方が胸に響く方にこそ、ぜひ知ってほしい武将です。