033【龍造寺隆信】肥前の熊、九州統一を夢見た猛将の生涯

戦国時代の九州――

といえば、島津家や大友家が思い浮かぶかもしれませんが、その間を縫って勢力を広げ、「肥前の熊」と恐れられた男がいました。

その名は、龍造寺隆信りゅうぞうじ たかのぶ

圧倒的な勢いで肥前を制し、九州統一へと邁進した彼の人生は、まさに“猛将”の物語。

今回はそんな隆信の、熱くて哀しい戦国ドラマをお届けします!

名門の家に生まれるも、波乱の幼少期

龍造寺隆信りゅうぞうじ たかのぶ1529年、肥前(現在の佐賀県)に生まれました。

龍造寺家は名門の家柄でしたが、時代は下剋上の真っ只中。

幼い隆信は、家の勢力が弱まりつつある中で育ちました。

しかし、若き隆信はただ者ではありません。

次第に実権を握り、自らの力で家を再興していきます。

やがて家督を継ぎ、力強い統治と軍事力で周囲を圧倒。

その活躍ぶりから、彼はいつしかこう呼ばれるようになります――

「肥前の熊」と。

圧倒的な武力で肥前制覇!

隆信たかのぶは、隣接する少弐氏や有馬氏を次々と打ち破り、肥前国内での覇権を確立していきます。

特に1578年、宿敵・少弐氏しょうにしを滅ぼした戦いは圧巻。

ここで名実ともに肥前の支配者となった隆信は、さらなる野望――

九州全土の制覇を目指し始めます。

そして勢いそのままに、筑後や肥後へも進出。

一時は九州の3分の1を支配する大大名にまで上り詰めたのです!

島津との激突!運命の沖田畷の戦い

しかし、隆信たかのぶの前に立ちはだかるのが、南九州の覇者・島津家

なかでも、戦術の天才・島津家久しまづ いえひさは手ごわい相手でした。

1584年、ついに両者は激突――沖田畷おきたなわての戦いです。

この戦い、数では龍造寺軍が圧倒的に有利だったのですが…

島津軍の巧妙な包囲作戦により、なんと龍造寺軍は大混乱!

そして、隆信自身も討ち死にしてしまうのです。

この敗戦により、隆信の夢であった九州統一の道は閉ざされてしまいました。

おわりに

龍造寺隆信りゅうぞうじ たかのぶは、派手なカリスマ性よりも、地道な努力と実力でのし上がった、戦国のリアリスト。

その強さは、当時の九州で他に並ぶ者がいないほどで、だからこそ「肥前の熊」と恐れられ、敬われたのでしょう。

その最期は悲劇でしたが、彼が築いた基盤は、のちに佐賀藩としての繁栄に繋がっていきます。

派手じゃなくても、堅実に力を重ねる――

そんな生き方が胸に響く方にこそ、ぜひ知ってほしい武将です。