019【山本勘助】軍略の天才!影に生きた風林火山のブレーン

はじめに

戦国時代といえば、名将たちの熱い戦いが思い浮かびますよね。

でも、その勝利の裏には、静かに戦場を操った影の軍師たちの存在があったことを忘れてはいけません。

その代表格が――山本勘助やまもと かんすけ

武田信玄の参謀として名高く、あの有名な「川中島の戦い」にも深く関わった天才軍師です。

今回は、そんな知略のスペシャリスト・勘助の波乱に満ちた人生を、やさしくドラマ仕立てでお届けします!

生い立ちと謎多き前半生

山本勘助やまもと かんすけの生まれは1500年ごろ、今川領(現在の静岡県あたり)とされています。

しかし、出自や幼少期の詳細はハッキリしておらず、謎が多い人物なんです。

ひとつの説では、片目が見えず足も不自由だったとも言われていて、若いころは武士として取り立ててもらえなかったという話も。

それでも彼はあきらめなかった。独学で戦術や兵法を学び、各地を放浪しながら己の知識を磨いていったのです。

このあたり、まるで苦労人の主人公が努力でのし上がる時代小説みたいでグッときますよね。

武田信玄との運命の出会い

そんな山本勘助やまもと かんすけの運命が大きく動いたのは、武田信玄に仕えるようになってから。

「風林火山」で有名な信玄の軍において、勘助は参謀として才能を発揮!

彼の立てた作戦は冷静かつ大胆。信玄の数々の戦を勝利に導きます。

なかでも「砥石崩れ」と呼ばれる戦いでは、不落と言われた砥石城を攻略する奇策を提案し、大きな注目を集めました。

表舞台には立たずとも、信玄の背後にいつもいた――

まさに軍略のブレーン! それが勘助だったのです。

川中島の戦いと最期

山本勘助やまもと かんすけの名前を語るうえで欠かせないのが、あの「川中島の戦い」。

これは武田信玄と上杉謙信という、戦国きっての名将同士がぶつかった歴史的な一戦。

勘助はこの戦で、「啄木鳥きつつきの戦法」という作戦を提案しました。

ところが――この作戦、謙信に見破られてしまいます。

戦は激戦となり、そしてその中で勘助は命を落とすのです。

「軍師が自ら最前線に立った」という説もあり、その姿はどこか悲しく、そして美しい…。

知略に生きた男の、壮絶な最期でした。

おわりに

山本勘助やまもと かんすけは、華やかさや権力とは無縁の人生を歩みました。

でも、彼の立てた戦略、信玄との信頼関係、そして武将としての生きざまは、今も多くの人に愛され、語り継がれています。

目立たないけれど確かな力を持つ人って、現代にもいますよね。

そんな「縁の下の力持ち」のロールモデルのような存在が、山本勘助なのかもしれません。